『優勝麬』の湯呑
骨董ジャンボリーで入手しました。見た瞬間、『おっ』と思い手にしました。そのあと何度か店の前を通過しましたが売れなかったようです。『不思議だな???』、値段も実に安い!600円だったかな。(いえ、このようなオリンピック関連ものとしての値段としてはですが)

『優勝麬(ゆうしょうふorゆうしょうふすま)』とかかれた太細緑二重線入りの湯呑です。『優勝麬』と書かれていることから会社用のものかと思われましたが、どうも様子が違いました。『優勝麬』についてはよくわかりませんでした。

内部には五輪マークらしいものと国旗が三本並んで絵付けされています。これはオリンピックに便乗した湯呑だったのです。

高台内には番号や銘などはありません。
これが日本のどちらの時代のオリンピックに関連してつくられたものかということが問題になりますね。個人的な判断でいうと高台の畳付が太く、素地も白くカサッとした感じがあるので、こういう感じの高台は統制陶器に見られませんので、戦後のオリンピックだろうと思います。
国民食器と工場食器 その10
今日は統制番号を持つ緑二重線入り食器と他の裏印を持つ緑二重線入り食器を見てみましょう。


美濃窯業株式会社の扇マークと『硬質磁器』銘を持つプレート皿です。20センチほどの大きさで使いやすい大きさです。扇のマークがあることから昭和初めごろではと考えています。


こちらは美濃窯業株式会社でも『岐1065』の生産者登録番号時代の工場食器です。裏側、口縁の造りなどは上記とよく似ています。


この2点は小皿ですが、一方が統制番号付きで一方は戦後ないし戦前と思われるものです。サイズこそちょっと差がありますがほぼ同じです。裏側は高台やその内部の輪線の違いと統制番号『岐1088』と『MARUGI』が相違点ですが、ほぼ同じです。これらの生産の時代が近いことを指名していると思われます。
つづく
日陶製の工場食器

緑二重線入りの湯呑です。大きな社章が印象的です。(決して『と・も・だ・ち』や『アトランティスの呪い』とか関係ありません)絵付けはゴム印ではなく、銅版でしょうか。線描きですがかなりシャープな絵付けです。

反対面には社名が書かれています。『日本碍子株式会社』とあります。1919(大正8)年に設立されて以来、高電圧がいしをはじめさまざまな製品を生産しています。この湯呑が造られたのは戦前と思われます。

戦前というのは高台内にある『日陶製』のクロム印が確認されるからです。ひょうたんともこけしともとれる枠が独特です。
国民食器
国民食器と工場食器 その2
東濃地域の瑞浪地区にあった美濃窯業株式会社(統制番号は岐1065)に問い合わせたところ、以下の回答を得ることができた。
『当社は大正7年8月耐火煉瓦の製造を目的として設立、翌8年地元産業である陶磁器の製造を併業開始しました。大正9年片倉製糸(株)(現片倉工業株式会社)の社員食堂用食器を大量に受注し、以来紡績、船舶、工場、病院等の集団給食用食器のトップメーカーとして定評をいただいてまいりました。
特に戦前、戦中、戦後と全国的に販売された「グリーン2線」社章(マーク)入り食器は「美濃硬質磁器」としてご愛用をいただきました。
戦後の復興期から成長期においては再びその最盛期を迎えましたが、昭和30年代に入ると、この市場に化学食器(メラミン、ベークライトなど)が参入し、その取扱い易さなどから陶磁器の市場縮小を余儀なくされました。
「グリーン2線」の生産開始は大正9年以降と思われますが、確たる記録は不明です。』


これは胴部に『片倉 廿周年記念』の文字がみられる湯呑。片倉製糸紡績株式会社(大正9年・1919年に設立)に納入されたひとつであることがわかる。また『廿周年記念(二周年記念)』とあることから大正10年製と推測できる。ただ、高台内には製造メーカーの印は無いため、これが美濃窯業株式会社で生産されたものかは確認できない。



こちらは以前紹介したが胴部に『昭和6年10月20日』の年月日が付けられている湯呑。これは記念品として配布されたものだが、この頃には国鉄向けにも食器を造っていたと思われる。
高台内の扇のマークがこの会社のマークであることは他の製品によって判明している。



ちなみにこの製品の登場によって扇マークが美濃窯業のマークと判明した。旧字体の『医』の文字が見えることから病院か医大で使用された食器であろうが、どこかはわからない。
つづく
沖縄旅行4



これ、パッと見はよくわからないかもしれませんがコカコーラの瓶を切ったものです。米軍が捨てていった瓶の底部分を利用してコップに仕立てたもので、戦後すぐの製品です。物資不足からの再利用品としてははじめて見る物でしたが平和祈念館にも展示してありました。
口ふちはちゃんと面取りされていますし、唇を切らないように滑らかに仕上げてあります。



こちらはおそらく戦後、本土から『輸入』された米軍向け食器類のひとつと考えられる。沖縄ではかなりの数の陶磁器が戦前戦後を通じて搬入されており、壷屋焼はそのつど廃絶の危機にさらされながらも生き残っている。
これは口ふちのつくりが分厚く、特徴的な緑の線がぐるりとめぐらされている。線の特徴から有田や肥前といった九州の窯場の可能性がある。高台内にある『MTC MATSUBARA』は窯元の社名でしょう。
『昭和十六年』墨書の食器(昭和15~16年製)

木箱の蓋には『昭和十六年三月吉日 茶具箱 朝日町第一隣保組』と墨書されています。伊万里焼などでもそうですが箱に年号が書かれているものは(モノが入れ替わっていない限り)製造年代を特定するのに重要な意味を持ちます。
『隣保組』は『隣組』とも呼ばれるものでしょうか、細かな定義がよくわかりませんがともかく当時の会合である『常会』で使用されたのでしょう。

中身は土瓶が1つと20個の湯呑が入っていました。湯呑の1つを除いて、土瓶も湯呑も『朝日町第一隣保組』と言う上絵文字が焼き付けられています。
それぞれを見てみましょう。



土瓶は丸型で竹のつる付き、胴部にイッチン技法を使用して蔦の葉を描いています。蓋には『朝日町第一隣保組』の文字です。底や蓋裏には統制番号はありません。当然ですね、統制番号の表示は昭和16年4月以降ですから。



湯呑は緑二重線入りです。東濃製と考えられます。内部には『朝日町第一隣保組』の上絵文字、注文主が陶磁器屋に注文して付けたものです。これにも統制番号はありません。
『同じ釜の飯を食う』という言葉がありますが、これも住民の結束のためにと同じ食器をそろえたのでしょう。よい結果も生みますが、時としてより悪い結果を生み出すこともある。
まだ、国民はが数年後の日本を夢にも思っていない時代です。
陸軍の湯呑?
8月なので今まで紹介していない分野を出してみます。正直知らない部分がほとんどですので間違いがあるやも知れません。

緑二重線入りの湯呑です。日本陸軍の星のマークが銅版転写で付けられていますので緑二重線入りの食器類でも古いタイプだろうと考えています。
緑二重線は手書きのようで太さは均一ではありません。時々見かけますが統制番号を伴わない物の方が多いように思います。

口のつくりは分厚く造られています。倒したり落下に耐えうるように、割れた際に細かく飛び散らないようにとした工夫でしょう。頑丈そのものです。

高台部分は写真がぼけてしまっており、見えにくいのですがすでに撮り直そうにもどこにあるか分からぬ始末。勘弁してください。
高台は外側は直角になっていますが、内側は滑らかに湾曲しています。こういうものは石膏型を利用して製造されたものと見て間違いないでしょう。緑二重線のデザインの登場から考えると昭和初め頃のものではないのでしょうか。当然のことながら統制番号はありません。
サイズは測り忘れ。直径・高さはほとんど同じだったと思います。
昭和6年銘の国民食器

『昭和六年十月二十日 彌富(やとみ)駅主催臨時列車 善光寺団体参拝記念』と年号が付けられています。『弥冨』は愛知県の西部、三重県に近い地域で金魚の飼育で有名なところです。
ちなみに昭和6年の主な出来事として『のらくろ2等兵』の掲載開始(1月)、満州事変勃発(9月)、森永製菓がチューインガムの販売開始(9月)やC・Bカレー事件(イギリス産カレーの中身を国産にすり替えて販売したという・・・どこかで聞き覚えのある内容ですね)などがあります。
また、不況の折、財テクのためのハウツー本が売れたとのことです。

反対面には国鉄のマークが付けられています。このマークだけなら国鉄の関係箇所で使用されたものと考えられます。

高台内には『TRADE (扇の絵) MARK』とクロム釉印が付けられています。このマークを使用した会社は後に『岐1065』の統制番号を使用することになります。岐阜県瑞浪市に工場を持っていた会社(今は工場はありませんが会社は存続しています)です。
サイズは直径7.4センチ、高さ7.2センチ。
これを見るとこの頃はまだ『国民食器』という戦時色を帯びた性格は持っていないように見えます。はじめの頃はただ文様としてのシンプルさで受け入れられていたのでしょう。そう考えます。
緑二重線入り食器2つ
いつごろまで製造されたかについては岐1065の会社に問い合わせたときは昭和30年ごろまでとの回答を得たのだが最近、今でも製造しているとの話を伺った。
で、今日紹介するのは戦後の製造品の2点。1つは陶片狂さんが骨董市で購入され、ブログ『陶片茶房』で紹介された皿。もう1つは昭和30年代と思われる形状の茶碗です。

すでにブログでご存知の方も多いでしょう。緑二重線入り皿の中央に吹墨風で餅つきウサギの図が入れられた小皿です。
図としては面白い・・・いわゆる図変わり・・・のですが『違和感』がありました。ウサギです、特に左のウサギが中空を見ているところ。下手な絵付けが多い明治以降においても配置のバランスはちゃんと取っているからです。これならばウサギはどちらか片方にしたほうがよかったでしょう。

高台部分は石膏型を使用していると思いますが丁寧に調整されています。釉薬もつるんとしており(戦前もつるんとしているが)全体的な判断からすると戦後、それも最近のもののようです。サイズは直径10.2センチ、高さ2.2センチ。
今回取り上げたのはこれを糾弾するためではなく、あくまでも今でも製造されていること、新しいものを古いものと称する業者も出てくるかも知れぬこと、戦時中の緑二重線入り食器との違いを知ってもらいたいためですので誤解なさらないで下さい。
もう1つは骨董市で入手したものです。

こちらは緑二重線入り茶碗です。戦前、戦中の緑二重線入り食器とはかなり形状が違うことは一目瞭然です。
今の茶碗もそうですが、茶碗類は高台から口縁に向かって丸く穏やかなカーブを持っています。しかしこれは高台から口縁までストレートに、鋭くなっています。このような茶碗は昭和30年以降の流行ではないかと思います。

高台部は丁寧に高く造られています。高く造っている点も特徴でしょうね。ここらのものだとまだ自宅に、実家の食器棚にあるという方もおられることでしょう。
サイズは直径11.7センチ、高さ5.9センチ。